トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」

春は仕事がしにくい。その通りです。が、なぜでしょう。吾々が感ずるからです。そして創作する者は感じても差支えないと思うような人は、へっぽこだからです。真正の率直な芸術家なら、誰でもこのへぼ作者の迷妄の幼稚なのを微笑します――憂鬱な微笑かもしれないが、ともかく微笑します。なぜといって、およそ人が口でいうことは、もちろん決して第一義であってはならない。第一義は正に、それ自体としては無価値ながら、それを組み合わせて、美的形象が余裕綽々たる優越をもって作り出される素材にあるはずですからね。もしあなたが、口でいうべきことをあまりに大事がったり、それに対して心臓があまり暖かく鼓動しすぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くものと思って間違いはありません。あなたは悲壮になる。感傷的になる。あなたの手からは、鈍重な、たどたどしくまじめな、まとめきれない、むき出しな、匂いも味もない、退屈な、陳腐なものが出来上がります。そして結局、世間は冷淡だけを、あなた自身は幻滅と悲痛だけを感じるというのが落ちですね。・・・・・・つまりこういうわけですよ、リザベタさん。――感情というものは、暖かな誠実な感情は、いつも陳腐で役に立たないもので、芸術的なのはただ、吾々の損なわれた、吾々の技術的な神経組織が感じる焦燥と、冷たい忘我だけなのです。吾々は超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ、その人間的なことを演じたりもてあそんだり、効果をもって趣味をもって表現したりすることはできもしないし、またてんからそんなことをして見る気にさえもならないわけです。文体や形式や表現なんぞの天分というものがすでに、人間的なことに対するこの冷かな贅沢な関係を、いや、ある人間的な貧しさと寂寥とを前提としています。なにしろ健全な強壮な感情というものは、なんといっても無趣味なものですからね。芸術家は人間になったら、そして感じ始めたら、たちまちもうおしまいだ。

実吉捷郎・訳 「トニオ・クレエゲル」、岩波文庫、1952年

 

 

春は仕事がやりにくい。これは確かだ、ではなぜなんでしょう。感ずるからですよ。それから、創造する人間は感じてもいいなんて思い込んでいる奴は大馬鹿者だからですよ。本物の正直な芸術家なら誰だって、そういう浅はかなぺてん師式の妄想に会っては微笑してしまいます――たぶん憂鬱にね、けれども微笑します。なぜかっていえば、人が口で言うことは絶対に肝心なものなんかじゃありえない。それだけをとって考えてみればどうだっていいようなものにすぎない。そういうものは、肝心かなめの美的形象が遊戯的な悠々たる優越さのうちに作り出されるための材料にすぎないんです。あなたが言うべきことをひどく大切に考えていたり、そのことのために心臓をあんまりどきどきさせたりすれば、まず完全な失敗は間違いのないところでしょう。悲愴になる、センチメンタルになる。それでどうかというと、何か鈍重な、不手際で大真面目な、隙間だらけの、鋭さを欠いた、薬味の入っていない、退屈平凡なものが生まれるだけなのです。そしてその結果は、世間はつまり冷淡にそれを迎えるだけだし、あなた自身はといえば失望と苦痛だけしか手に入れられない。・・・・・・全く事実はそのとおりなんです。リザヴェータさん、感情っていう代物は、暖かい心のこもった感情っていうやつは、いつだって平凡で使いものにならない。芸術的なのはね、われわれの破壊された、われわれの職人風の神経組織の焦立たしさと氷のような忘我だけなんです。人間的なものを演じたり、弄んだり、効果的に趣味ぶかく表現することができたり、また露ほどでも表現しようという気になるにはですね、われわれ自身が何か超人間的な、非人間的なものになっていなければならないし、人間的なものにたいして奇妙に疎遠な、超党派的関係に立っていなければならないんです。様式や形式や表現への才というものがすでに人間的なものにたいするこういう冷やかで小むずかしい関係、いやある人間的な貧困と荒廃を前提としています。どのみち健全で強い感情は没趣味なものですからね。芸術家は、人間になって、感じ始めると、もうおしまいです。

高橋義孝・訳「トニオ・クレーゲル」、新潮文庫、1956年

 

 

春は仕事がしにくい。たしかに。でもなぜ? それは感じるからだ。ものを創る人間だって感じてかまわないなどと思っている連中は、要するに何もわかっちゃいない。そういう能天気な勘違いに対して、本物の芸術家なら誰でも微笑するだろう――まいったな、って思いながらね、たぶん。でもとにかく微笑するんだよ。それはね、語る事柄が重要であってはならないからだ。それ自体は単なる素材にすぎない。それをもとに芸術家は、冷静に余裕たっぷりに作品を創る。言おうとすることをあまりに重要に考えると、心臓が温かく打ちはじめる。そうなったら失敗するのは目に見えている。ぼくらは大仰になり、センチメンタルになる。そして、気が利かない、まじめくさった、粗野なものができあがる。風刺も効かず、気のぬけた退屈で陳腐なものだ。その結果、どうなるか。世間は無関心、ぼくらは失望し、悲嘆にくれることになる。なぜなら、こういうわけなんだよ、リザヴェータ。感情ってやつは、温かく深い感情ってやつは、いつだって陳腐で使いものになんかなりゃしない。芸術的なのはただ、ぼくら芸術家の退廃的な神経のいらだちや冷めたエクスタシーだけなんだからね。人間的なものを演じたり、もてあそんだり、効果的にうまく描きだしたかったら、人間でいてはまずいんだ。非人間的な存在でいなければ。人間的なものに対して奇妙に距離をおいて傍観していなくては。そもそも優れた文体や様式、表現などの才というものは、人間的なものに対する冷やかで気むずかしい関係、言うなれば一種の人間的な貧しさや荒廃が前提になっているんだから。健全で激しい感情ってやつは洗練されていないからね。人間になってしまったら、そして感じはじめてしまったら、芸術家はおしまいだ。

平野卿子・訳「トーニオ・クレーガー」、河出文庫、2011年

 

 

春は仕事がはかどらない、確かにそのとおりだ。でもそれはどうしてだと思う? 敏感になるからだよ。創造者は敏感であってもいいなんて信じる奴がいたら、うぶもいいところだ。本物のまともな芸術家なら誰でも、そんなうさんくさい思い違いの素朴さに、微笑むしかない――苦笑かもしれないけど、とにかく微笑むだろうな。だって、人が口に出す言葉なんて、決して肝心なものじゃなくて、それ自体はどうでもいいんだから。単なる材料だよ。そこから芸術家が優れた才能を発揮して、戯れるように軽やかに、芸術作品を創り出すんだ。芸術家が、なにを言うかに重きを置きすぎて、あんまり思い入れを持ちすぎたりすれば、どうしようもない大参事になるのは間違いないね。そういうとき、人はもったいぶって感傷的になるからね。そして、どこか鈍重で、ぎこちなくて変にまじめで、抑制も皮肉もきいていない、味気なくて、退屈で、通俗的なものを生み出すことになる。その結果得られるものといったら、世間の人たちの無関心と、芸術家自身の失望と嘆きだけ・・・・・・だって結局はね、リザヴェータ、感情っていうのは―― 温かな、心底からの感情っていうのは――常に通俗的で、使いものにならないんだから。芸術を生み出すのはね、我々芸術家の腐りきった不自然な神経が感じる、苛立ちと冷たいエクスタシーだけなんだよ。人間的なものを演じたり、もてあそんだり、効果的に美的に表現したりするためにには――いや、そもそもそんなことをしようと考えるためには――どこか人間以外の存在、非人間的な存在でいることが必要なんだ。人間的なものには奇妙に距離を置いて、無関心でいなくちゃならないんだよ。そもそも様式や形式や表現の才能というものは、人間的なものに対するそういう冷たくて気難しい関係を前提としているんだ。そう、つまり、芸術家はある意味貧弱で荒廃した人間でなくちゃならない。だって、健康的な強い感情は、美的じゃないからね。芸術家っていうのは、自身が人間になってしまったら、そして感じることを始めたら、そこで終わりさ。

浅井晶子・訳「トニオ・クレーガー」、光文社古典新訳文庫、2018年