昨日の続き

古谷利裕『世界へと滲み出す脳』を買った。その「はじめに」の冒頭の箇所。

ある作品を観てそこから決定的な「何か」を感じてしまったとする。その時に感じられた「何か」を、その作品の物理的な組成や仕掛けられた仕組み(構造)にすべて還元する事は出来ないだろう。構造に還元し切れないものこそが、その作品独自の質であり、オーラである。しかし、だからこそ、その時感じた「何か」が恣意的な気まぐれではないということ、つまり作品そのものとは関係なく、「私」の頭が勝手につくりだした幻影ではなく、幻影であっても、その作品に由来するものであることを証明することは難しい。ではなぜ、作品から感じられた「何か」が、恣意的な気まぐれではなく、作品に由来するということが証明されなければならないのか。それは何も、作品というものの価値を擁護するためだけのことではない。もしそれが示さないならば、「私」の感覚が、「私」の外側にある客観的な世界とどのように繋がっているのか分からなくなってしまうからだ。

「私」と「作品」と「世界」のトライアングルな関係を結びつけているものが「何か」である、ということでいいのかな。